by 千代崎
このまま帰らなかったら、どうなるんでしょう。
何の気なしに呟いて間もなく、ちょうど素肌の上に隊服を羽織ろうとしていた捲簾が手を止めて「は?」と振り返った。
場所は下界のどこか、特筆することもない小さな安宿の一室。古びた埃っぽい部屋のガタつく寝台に、どういう経緯で辿り着いたかは覚えていない。何せ二人とも、いつになく酔っていたのだ。任務明けに小隊全員で呑みに行った後、確認を取ってから二人で別行動に移ったところまでは覚えている――後は、床に脱ぎ散らかした服と身体の疲労感から推して知るべし。
カーテンの隙間から差し込む光線は、とうに高く昇った太陽のそれだろう。何をのんびりしていたのかと他人事のように思いながら、目をぱちくりさせている捲簾へと言葉を紡ぐ。
「いえね、目が覚めたら随分と貧乏くさい部屋にいたものですから」
漂う空気からして、どこか天界と違っている。
そのせいか一瞬、夢想した。僕と彼とで、湿っぽくせせこましい下界の部屋に二人で暮らす絵を。朝日が昇ればそれぞれに出かけて、夕日が沈む頃には同じ釜の飯をつついて、草臥れた身体を重ね合って死んだように眠る。そんな慎ましい繰り返しを、安っぽい下界のドラマのような甘い生活を。
「このままひっそり棲みついちゃうのもアリかなぁとか」
「ッは……ま、ちょいと長く居過ぎたな。そーいや下界の滞在時間とかって決まってんだっけか」
「さあ。思い当たりませんが」
随分と今更な話ではあるが、そういった具体的な規則は定められていなかったと思う。そもそも向こうの時間の流れはこちらより緩慢かつ曖昧だ。
勿論、一小隊をぽろっと放り出しておいて後はご勝手に、なんて訳にはいかないだろう。帰投時は原則、全員揃った状態でゲートを開けてもらうことになっている。しかし例えば他の全員で示し合わせて「死んだ」ことにしてしまえば――縁起でもないが――一人や二人抜け出すことは出来なくもないだろう。
「居続けようとすること自体は、不可能ではないのかもしれませんね」
「あ?」
怪訝な顔で煙草に火を点ける彼が、ちょうど昨日も釣った魚を捌いていたのを思い出す。何を食べようと何処で遊ぼうと咎められないことからして、下界での僕らの行動は逐一監視されている訳ではないのだ。「目」から暫し逃れることそれ自体は、きっと困難ではない。
そう、真に僕らを縛るのは、そんな露骨で物理的な制約ではないのだろう。
「けれど、僕らには下界での身分を証明するものがない。それにここは天界よりも不便で未発達で、そのくせ時間の流れは驚くほど速いでしょう」
分かりきったことを口にしながらも、こみ上げる感情はほの温かいものだった。天界よりも不便で未発達で、移ろう時の中に消えゆく儚さを持った――そんな下界のあらゆるモノこそが、僕らを不思議と惹きつけるのだから。
「進んで堕す物好きはそもそも居る筈がない、と考えられているのかもしれません」
だから僕らは限りなく、楽園の不適合者に近いのだ。
「……お高く留まってるお偉いサン達らしいっちゃ、らしいわな」
つーかそろそろ服着ろ、と漸く口を挟む機を得た捲簾が溜息を吐く。言われてみれば全裸だった。真剣に考え込んでいる間もずっと、神妙な顔で推論を述べている間もずっと。ここまできて今更着るのも面倒というか、ついでにこの状態でしかできないことをもう一回ぐらいしておいてもいいような気がするというか。
「置いてくぞオラ」
「……」
腰に回そうと伸ばした腕は、にべもなく振り払われた。
置いて行く。どこへ行くのか。そうだ、あちらへ帰るんだ。至極当然のことのように、やっぱり貴方は帰るんだ。
きっと僕以上にこの世界の人を、自然を、在り方を愛でている彼でさえ。背負ったものを全て捨てて、何もないところからここで生きてゆくことは選ばない。見えないくびきを断ち切ることは、できない。
渋々ながら上体を起こし、ほい、と捲簾が投げつけてきたシャツを被る。順序よく上衣がパスされたとき、ポケットから滑り落ちた煙草の箱は空っぽだった。
寂しいくちびるを指で撫でながら、潰れたその殻を見つめる。下界の嗜好品、いくつもの「お気に入り」の内のひとつ。僕らは気楽な観光客のように、それを天界に「持ち帰る」。それで今は――少なくとも今は、満足なわけで。
「……全てを犠牲にしてもここで一生を過ごしたいと思ってしまうようなことは、あるんでしょうかね」
「……さぁな、」
少し間を置いて紫煙まじりに吐き出された返答は、思いのほか真剣な色を帯びていた。
「この先何が起こるか分かんねーし」
「もしそうなったら、貴方はどうします?」
「やりてーことはやりてーときにやる主義よ、俺」
「奇遇だなぁ、僕もです」
予想通りの彼らしい返答に、思わず笑みがこぼれる。
「ていうか危ういですよねぇこの会話。ホントに監視とか盗聴とかされてたらどうしましょう」
「……されてたら出来るかっつーの。こんなトコで」
あんなコト、と言い足す捲簾の声が恨めしげに低まる。昨夜のことを思い出しているのだろう。相当屈辱的だったと見えるが、はっきり覚えていないのが残念だ。
きまり悪そうに吸い殻を強く灰皿へ押しつけるさまに、意地悪な気持ちがまた膨らんでゆく。やりてーことはやりてーときにやる。繰り返すが、その主張には僕も賛成だ。
「っ、」
身を乗り出し、空っぽになったくちびるを奪った。拡がる煙草の味は僕の好みとは程遠く、それでも彼の温度と感触は口寂しさを綺麗さっぱり忘れさせてくれる。
古びた時計の秒針が音を立てる。一息に舌を巡らせるうちに、七つ。刻一刻と、時は過ぎてゆく。実感は伴わないが多分それは恐ろしく速く正確で、天界のように漫然としていない。
「……三十分」
急ぎの仕事を命じるように言い放ちつつ、ベッドに引き込まれたその身は抵抗の意志を失くしている。満更でもないんじゃ、なんて言いたくなるが、あらぬところを蹴り上げられては堪らないので流石の僕も口を噤む。
「……あ。ていうか」
「あ?」
「服。結局着た意味なかったなぁって」
そして分針は非情にも、きっかり二周の時を刻む。
◆ ◆ ◆
縛られているつもりはなかった。けれど、拡がりに欠けていた。ここに生まれてきた時点で、心の何処かは初めから凍りついていた。貴方がじわじわと融かしてくれるまで、そしてあの子が全てを切り開くまで、ずっと。
だから、もしも次があるのなら。
初めから「外」に生まれて、そこで生きてゆきたい。
やっとのことでくびきを逃れた身体からは、間もなく全ての感覚が失われるだろう。
奈落へと堕ちてゆく意識の中、最後に浮かんだ風景は、いつかどこかの遠い日常。
決して手狭ではないが、人里を離れた少し古い住居。そこには姿のよく見えない、ふたりの男が暮らしている。生活は殆ど噛み合わず、片方が寝ればもう片方が起きるという始末。だから諍いもなければ、過ぎた慣れ合いもなく。それでも不思議と、その暮らしの中で安らぎに似たものを覚えている。
――ああ、よかった。
やがてはぜたその幻が、小さな光の粒へと変わり、音も立てず消えゆくさまを見送りながら。
腹部の痛みがゆっくりと、癒えてゆくのを感じていた。
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